浦嶋絵解きを次世代へ継承していく為の動画撮影

2021/11/11 02:52

11/10(水) 動画撮影に同行

浦嶋絵解き解説を次世代へ継承していく為に動画による保存を計画し、今回その撮影の一回目に同行しました。

この事業は『 郷土の歴史と文化を守る会 』が主体の事業ですが、奉賛会のメンバーも多く在籍しています。

また、このプロジェクトのリターンであるイベント体験の一つにも大きく関わる事なので同行しました。

当日は撮影日和の快晴。

先ずはドローンによる神社全景の撮影から始まりました。

ちなみにこの日は京都新聞さんも取材に来てくれました。

宝物館にて宮司による浦嶋絵解き解説を午前中いっぱい使い撮影。

午後からは浦嶋史跡巡りの撮影に案内役として、撮影隊の皆さんと共に、いざ!出陣!

先ずは浦嶋太郎が漁をしていた常世の浜(本庄浜 ) に向かって出発。


〈龍穴〉

この⿓⽳には、「⿓宮に通ずる⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷した⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷時に休息した場」など、様々な説話が残っていて、過去には様々なTV番組もロケに来ている場所。

この⽳に⽩い⽝を放ったところ、この地の北東、海岸に⾯した隠れ⾥の⾵⽳に出たとの伝承があります。


〈大太郎嶋( 垂乳根) 神社〉

⼤太郎嶋神社は垂乳根神社とも呼ばれ浦嶋⼦の両親が祀られています。

浦嶋⼦の⽗であるこの浦島太郎は、曽布⾕次郎、今⽥三郎の兄になります。


【若宮神社】

この若宮神社は少し時代背景が浦嶋子と異なります。

祭神の三野対馬守郎女命は、三野対馬守(? -1623)の妻であり、三野対馬守が亡くなった承応2年の2年後、寛永2年(1625)に亡くなっています。

三野対馬守は藤原太郎忠勝とも称し、室町時代には丹後守護一色氏の配下で本庄城(水之江城)の城主を務めていました。

元亀4年(1573)には退城、民間に下り本庄浜の名家平松家の祖となっています。

この平松家の末裔には、戦前に爆発的な大ヒットとなった『東京音頭』(昭和9年/1933)を歌った三嶋一聲(本名:三野哲太郎)を輩出しています。

ヤクルトスワローズのファンは勿論、皆が知っている東京音頭を歌っていた歌手として当時の大スターの一人だったんでしょうね。

この方の人生は波乱万丈で本にもなっていますね。

晩年は生家のあった本庄浜で余生を送られました。

白髪に白髭を蓄えられ、長い間郷土を離れていた事から当時、現代の浦嶋太郎と揶揄される事もあったようです。

神社境外にも三嶋一声氏の石碑があります。

話が少し脱線しましたが、三野一族は、代々浦嶋子を守護し、浦嶋神社にも大きく貢献し、神事にも携わってきた地元では名家の一族。

長らく氏子総代も代々務めていました。


【曽布谷次郎屋敷跡】

現在の屋敷跡石碑のあるところから南に50mほど先の田圃の中に1本の杉の木があり、そこに屋敷跡が残されていました。

が、昭和53年の圃場整備により、現在の山麓に移されました。

また、石碑の隣にある陰陽石は、子宝の神として昔より現在に至るまで地域から厚い信仰があります。

【今田三郎屋敷跡】

本庄上今田地区の土地の人達によって今田三郎の屋敷跡はこの地であったと古くから語り継がれています。

この今田三郎は、この地の上にある今田三柱神社に祀られています。


【白鷺鼻】

元禄9年(1696)の浦嶋子口伝記に「浦嶋子仙人のように身軽く、天に昇り飛ぶ鳥のようで、ある時は泳ぎも魚の如く泳ぎまわり、雲龍山より流れ落ちる布引滝、高さ七十有余丈を鯉に乗りて上がり下がりをし、小舟に乗りて白鷺埼の沖合いで魚釣りを楽しむ」と記されています。

現在この地は海から約2.5km離れた所にあるか、この碑周辺は海に関係する地名が数多く残っている事から、当時はこの碑周辺は海だったと予測されています。


〈雲龍山・布引の滝・滝山〉

浦嶋⼦の亭跡が滝の下にあったと『丹後奮事記』『丹哥府志』に記されており、最初に嶋⼦が筒川⼤明神として祀られた場所としても可能性が指摘されています。

標⾼357mの雲⿓⼭(滝⼭)から流れ出る布引の滝。

浦嶋伝承に「帰郷した嶋⼦が⽟櫛笥を開け、⽴ち上る⽩雲が棚引き、この滝になった」とあります。

落差96mで全⻑131mと、京都府内で最も⼤きな滝であり、京都の⾃然200選にも選定されています。

以上、長文となりましたが今回の活動報告とします。

浦嶋神社 浦島太郎発祥の社

日本最古の正史「日本書紀」に記される浦嶋伝承は、今なおこの地に脈々と受け継がれている。

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