由緒と日本書紀、当地の伝承

「昔々浦嶋は 助けた亀に連れられて 竜宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ」

この歌は、文部省唱歌「浦嶋太郎」であり、尋常小学校唱歌第二学年用教科書として、明治44年6月28日に刊行された。これは全5小節の内の第1小節である。

浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社。創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。

伝承によると、浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、その後三百有余年を経て淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。常世の国に住んでいた年数は347年間で、淳和天皇はこの話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁(おののたかむら/802~853、官吏・文人、遣隋使を務めた小野妹子の末裔)を勅旨として派遣し社殿が造営された。

遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。暦応二年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。

浦嶋子の子孫に当たる日下部氏については、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也」とみえる。彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。


・「見すは亦くやしからまし水の江の
         浦嶋かすむ春のあけほの」    太上天皇


・「甲斐なしや浦嶋か子の玉手箱や
         かて明け行く齢ひ契りを」    權中納言爲明


・「明けて見て甲斐もありけり玉手箱
         再ひ返る浦嶋の浪」       細川幽斎


※昭和2年5月31日発行の『丹後史料叢書』第二輯「丹後名所詞歌集」から抜粋

【コラム】

都から浦嶋神社に送られる勅使は、必ず府中(現在の宮津市)から成相山、そして世屋高原を経て、太鼓山へ回った。筒川地区(伊根町)福之内集落のオオヤ(屋号)利右衛門は、先祖からの言い伝えを25代守り伝え、都から浦嶋神社へ向かう勅使を太鼓山で迎えた。

浦嶋神社は天長2年(825)7月22日とされるが、故鈴木孝道著の伊根町史によると「天長2年とは、天皇・朝廷から何らかの資格・認可を浦嶋神社が受けたことを示す年号である。さらにこのことは、当然それ以前の神社としての長い実績が評価されたものと考えることもできる。恐らく、前述の藤原京(694~710)以前まで、浦嶋神社の歴史は遡ることが出来るであろう」とある。


日本書紀にみる浦嶋子

『⽇本書紀』雄略紀

⼆⼗⼆年
秋七⽉
丹波國餘社郡管川⼈瑞江浦嶋⼦
乗⾈⽽釣 遂得⼤⿔
便化爲⼥
於是浦嶋⼦感以爲婦
相逐⼊海 到蓬莱⼭
歴覩仙衆
語在別巻


【現代語訳】

雄略天皇の御代22年(478年)秋7⽉、
丹波国与謝郡筒川に⽔江浦嶋⼦という⼈物がいた。
⾈に乗って釣りをしていると、遂に⼤⻲を得た。
⻲は美しい⼥性になり、浦嶋⼦はこれを妻とした。
海に漕ぎ出した⼆⼈は、蓬莱⼭に⾄った。
そこは仙⼈たちが暮らす世界だった。
詳細は別巻に在る。


【解説】

※⽇本書紀︓養⽼4年(720)5⽉21⽇成⽴、わが国最初の官撰国史(公的歴史書)
※筒川︓伊根町域を東⻄に貫流する河川(京都府⼆級河川)。近世までは本庄、筒川、朝妻(大原を除き)の一帯を筒川庄といった。

当地に伝わる浦嶋伝承は「⽇本書紀」に記され、全国各地に伝わる浦嶋伝承より、最も起源が古い。雄略天皇22年(478)秋7⽉の条に「丹波国(たにはのくに)余社郡(よさのこおり)の管川(つつかわ)の⼈」として「端江(みずのえ)の浦の嶋⼦」が常世の国へ⾏く物語が簡潔な⽂章で記されており、末尾に「詳細は別巻(ことつまき)に在る」と書かれている。その書物が何であったかは現在では特定できていないが、同時期に編纂された「丹後国⾵⼟記」が有⼒である。また、他にも「万葉集」巻九にある⾼橋⾍⿇呂が詠んだ⻑歌「詠⽔江浦嶋⼦⼀⾸」で浦嶋物語が歌われている。

これらの物語で登場する「浦嶋⼦」がいわゆる⽇本昔話でいう「浦島太郎」であるが、物語は中国道教の神仙思想の影響を⾊濃く受けており、古代には⻯宮城へ⾏かず神⼥(おとひめ)に誘われ蓬⼭(常世の国)へ⾄るという物語であった。浦嶋⼦は当地を治めた地⽅豪族の領主であったことから、⺠間伝承ではなく貴族、公卿などの⽀配層を中⼼に伝わっていった。室町期の御伽草紙に初めて「⼄姫」「⻯宮城」「⽟⼿箱」の名称とともに⻲の恩返しの要素が加わり、また、領主であった嶋⼦が「両親を養う漁師の⻘年」という⺠衆の⾝近な存在として描かれたことにより、⼤衆に広く受け⼊れられ全国に伝わっていった。このことが、「浦島太郎」伝承が全国各地に数多く伝わる要因であると考えられる。江⼾中期の正徳2年(1712)に、⼤阪⽵⽥からくり出し物で、初めて⻲に乗った浦嶋⼦が登場し、海中にある⻯宮城へ⾏くようになる。

明治29年(1896)に巌⾕⼩波(いわやさざなみ)が⼦ども向けに書いた⽇本昔話に、現在の浦島太郎のお話しに書き替えられ、明治43年(1910)には尋常⼩学校⼆年国語教科書にその省略版が掲載、翌44年(1911)には唱歌「浦島太郎」が作られた。このことにより、当時の⽇本全国の⼦ども達が読み学ぶことになり、また、唱歌は現在までも⼦ども達にお馴染みの歌として歌われ続け、⽇本⼈なら誰もが知っている代表的な昔話として⼤いに親しまれるに⾄った。

【昔話「浦島太郎」への変化】

⽇本書紀や万葉集、丹後国⾵⼟記逸⽂など、室町時代に撰述される「御伽草紙」までの浦嶋⼦伝承は、與佐の郡筒川の⼈である浦嶋⼦に起こった「事件」についての記述であったが、現代に⾄るまでに⼤衆向け、教訓的な「物語」として意図的に変化させられたといえる。

「御伽草紙」は、「釣り上げた⻲を放してやったところ、次の⽇、はるか海上に⼥房(⼥性)を乗せた⼩⾈があらわれ、⻯宮城に案内された」こと、「⼥房は前⽇に釣った⻲であった」ということに変わる。これは、仏教的な「⻲を放⽣することでご利益を得られる功徳」の要素が加わったといえる。また、明治に巌⾕⼩波が書いた「浦島太郎」は、ただ⻲を放⽣するのではなく、⼦どもが虐めている⻲を救済するという善⾏、動物愛護の教訓的要素が加わる。

御伽草紙以降の⼤衆に向けられた浦嶋⼦物語は、時代が下るごとに素性が曖昧になり、現代に⾄っては「むかしむかし」の「あるところ」と変貌を遂げ、もはやどこにいても何ら不思議のない「浦島太郎」になったといえる。当社の浦嶋⼦伝承は、江⼾時代に書かれた伝記にあっても成⽴当初のものと⼤きく変貌することなくその形を留め、浦嶋⼦は「與佐の郡筒川の⼈」であり続けている。

参考⽂献「宇良神社本『浦島明神縁起絵巻』について」中野⽞三(昭和63年12⽉20⽇/嵯峨美術短期⼤学紀要第14号別刷)


【浦嶋⼦伝承との関連が考えられる事象】

・豊受⼤神の伊勢遷座

伊勢神宮の外宮は豊受⼤神を祀る。豊受⼤神は、元々丹後(当時丹波国)に祀られていた。平安時代初期の『⽌由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』によると、第21代雄略天皇の夢枕に天照⼤神が現れ「⾃分⼀⼈では⾷事が安らかにできないので、丹波国の豊受⼤神を呼び寄せよ」と⾔われたことにより、雄略天皇22年(478)7⽉に伊勢神宮外宮に遷座することになったと記される。雄略天皇22年7⽉は当地の浦嶋⼦伝承の中で「浦嶋⼦が蓬莱⼭へ⾏く年」である。このときに丹後において何事かが起こった可能性もあり、そのことが浦嶋⼦伝承の発祥に何らかの関連がある可能性もある。


・⼤島村の創始

現伊根町と境界を接する旧⼤島村(現宮津市字⼤島)は、天⻑2年(825)に当地筒川庄からの移住により創始されたと伝わる。天⻑2年は当社の創建の年であるが、このときに合わせるようにして筒川庄からの移住により⼤島村が創設されたことは、多少なりとも関連性が窺える。淳和天皇の命による当社の創建は、中央政権または有⼒貴族による農地の管理や、⽀配体制確⽴と地⽅への勢⼒拡⼤など、様々な思惑が考えられる。


当地の浦嶋⼦にまつわる史跡・伝承

【⿓⽳】

元禄9年(1696)の浦嶋⼝伝記によると「⼩⾈に乗りて⽔乃江の湖中、⽩鷺岬亦は⿓⽳の辺りに釣⿂して遊ぶ。或る時は図らずして⼀霊⻲を得て⾈の中に⼊れる」とあり、⿓⽳が出てくる。この⿓⽳には、「⿓宮に通ずる⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷した⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷時に休息した場」など、様々な説話が残っている。この⽳に⽩い⽝を放ったところ、この地の北東、海岸に⾯した隠れ⾥の⾵⽳に出たとの伝承も残る。夏季でもこの⽳から涼⾵が吹き出てくることから、古来より地域住⺠が涼む場所としても親しまれている。

この正⾯には宮津藩奥平家の代官 菅沼吉兵衛が建⽴した碑がある。奥平家が宮津藩主であったのは元禄10年(1697)2⽉〜享保2年(1717)2⽉。


『丹哥府志』天保12年(1841)
「⿓⽳⼀に⾵⽳といふ、殊に此⽳より清⾵吹来りて夏などは⾄て涼しき事なり、かくれ⾥より此⽳に通ずといふ左もあらんと覚ゆ、⽳の傍に碑あり島⼦⿓宮より此所に帰り来るいわゆる⿓⽳是なりといふ。」
   出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)


『丹後州宮津府志捨遺』安永9年(1780)
「霊⽳ 本書にみへたり。此⽳の傍に⽴⽯有碑⽂を彫刻す、「浦島か⼦従⼆⿓宮⼀此所へ帰来則爰⿓⽳と云」と記す、此碑は奥平候の代官菅沼吉兵衛といふ⼈建しといふ、俗に⾵⽳ともいふ也」
   出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼆輯」昭和15年(1940)

【布引滝】

浦嶋⼦の亭跡が滝の下にあったと『丹後奮事記』『丹哥府志』に記されており、最初に嶋⼦が筒川⼤明神として祀られた場所としても可能性が指摘されている。

標⾼357mの雲⿓⼭(滝⼭)から流れ出る布引の滝は、浦嶋伝承に「帰郷した嶋⼦が⽟櫛笥を開け、⽴ち上る⽩雲が棚引き、この滝になった」とある。落差96mで全⻑131mと、京都府内で最も⼤きな滝であり、京都の⾃然200選に選定されている。2つの⼭頂に挟まれた⾕間はすり鉢状の地形をしており、麓から⾒ると背後に⼭並みがなく、空から直接流れ出ているようにも⾒えることから、神仙世界が具現化した理想郷をも想像させる。

この滝を左⼿に⾒ながら尾根伝いに登る古道が筒川上流域へ通じており、浦嶋神社と所縁の深い河来⾒集落まで3.5kmと、古くはここからも往来があった。また、この地を貫流する筒川は、かつてはこの脇まで蛇⾏していた。

布引滝の左⼿、雲⿓⼭中腹の尾根には、戦国期には本庄城(⽔之江城ともいう)があり、天正10年(1582)、細川忠興の軍勢が攻め寄せた際は、本庄城主を兼ねていた三富左⾺亮通諭(菅野城主)が近隣の地侍とともに城に籠もり合戦に及んだが、頑強に抵抗し⼀昼夜の猛攻に屈しなかった。細川勢は城攻めの不利を悟り、細川家と⼭内(三富)家の旧縁を頼りに和議を進め、城内地侍の安全を保障する条件で開城するに⾄った。なお、室町末期には三野対⾺守( ? -1623)が城主であったが、元⻲4年(1573)に退城、⺠間に下り本庄浜の名家平松家の祖になった。


『丹後奮事記』⽂化7年(1810)
「⽔江能野瀧 筒川庄宇治村の⼭上にあり雲引⼭といふ此辺に浦島が⼦の館跡あり⼜熊野瀧といふあり⾼サ卅余丈の峰より落て幅⼆丈余あり当国第⼀の瀧なり、往昔⽩雲⽟⼿箱の内より出て此峰に棚引常世の国へ去し跡なり」
   出展︓「丹後史料叢書 第⼀輯」昭和2年(1927)


『丹哥府志』天保12年(1841)
「布引の瀧 宇治村の後⼭を雲瀧⼭といふ、⼭の絶頂より⾶流直に下る凡七⼗五丈、聊樹⽊の遮るなし、実に銀河九天より落つるに似たり、瀧の下に不動堂あり⼜其辺りに島⼦の亭跡あり」
   出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)

【⼤太郎嶋神社】

鎮座地 伊根町字本庄浜⼩字宮ノ下919番地
祭 神 ⼆柱 浦島太郎(浦嶋⼦の⽗親)
垂乳根(浦嶋⼦の⺟親)
創 建 年代不詳
社 格 無格社
神 紋 ⼗六枚菊

⼤太郎嶋神社は垂乳根神社とも呼ばれ浦嶋⼦の両親を祀る。浦嶋⼦の⽗であるこの浦島太郎は、曽布⾕次郎、今⽥三郎の兄になる。

元禄9年(1696)の浦嶋⼝伝記に「浦嶋太郎、曽布⾕次郎、今⽥三郎の兄弟三⼈あり、その⼤祖は蓋 ⽉讀尊。浦嶋太郎はその苗裔、即ち当主の領主なり、然して⽽し弟皆嗣⼦有。嫡兄太郎に嗣⼦無し。夫婦共之を悲しむこと年久し。この時浦嶋太郎は天に祈り相貌美麗の⼦供を授かる。この児を嶋⼦と云い…(以下略)」

神紋は、16枚の菊の紋様で、浦嶋神社の御霊代(みたましろ)が収められている箱の紋様と同じである。

平成20年11月6日に現在地に遷座した。


『丹哥府志』天保12年(1841)
「社記⽈。(中略)⾵⼟記履仲天皇四年始て國史を置き盡く⾔事を記さしむ、此時に當りて丹波國與佐郡筒川の庄⽇置⾥に浦島太郎といふものあり、⽉讀尊の苗裔なり、故を以てこれを⻑者とし國事をしるさしむ。其弟を曾布⾕次郎といふ、次を今⽥の三郎といふ、浦島曽布⾕今⽥は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり。太郎は履仲天皇反正天皇の⼆代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(國史に⽇下部使⾂其⼦吾⽥彦億計弘計の⼆皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此⼈ならん)。」
   出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)


浦嶋五社(伊根町誌より)

元禄9年(1696)に来迎寺住職が「浦嶋五社」を記しており、浦嶋⼦の両親は嶋⼦を中⼼とした浦嶋五社のうち⼆社である。
本神 中 島⼦ 本地 正観⾳⾃在菩薩
左脇 浦島太良 本地 毘沙⾨天王
同次 ⺟御前 本地 阿弥陀如来
右脇 ⻯⼥ 本地 ⼗⼀⾯観⾳
同次 今⽥三良 本地 薬師如来
外ニ、曽布⾕⼆良本地地蔵菩薩是別社鎮座也

【曽布谷次郎屋敷跡】

現在の石碑のあるところから南に50mほど先の田圃の中に1本の杉の木があり、そこに屋敷跡が残されていたが、昭和53年の圃場整備により、現在の山麓に移された。また、石碑の隣にある陰陽石は、子宝の神として地域から厚い信仰がある。

この曽布谷次郎は三柱神社(伊根町字本庄宇治747番地)で祀られている。この地の北西は曽布谷といい、かつては集落が形成されており、天和3年(1683)は12戸、明治20年(1887,浦嶋神社に類焼した大火後)は2戸であったと記録されている。


『丹哥府志』天保12年(1841)

「島子の伝記に所謂曽布谷次郎の宅地なりとて聊か小祠を建たり、今其子孫なりといふものあり」

(再掲)「社記⽈。(中略)⾵⼟記履仲天皇四年始て國史を置き盡く⾔事を記さしむ、此時に當りて丹波國與佐郡筒川の庄⽇置⾥に浦島太郎といふものあり、⽉讀尊の苗裔なり、故を以てこれを⻑者とし國事をしるさしむ。其弟を曾布⾕次郎といふ、次を今⽥の三郎といふ、浦島曽布⾕今⽥は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり。太郎は履仲天皇反正天皇の⼆代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(國史に⽇下部使⾂其⼦吾⽥彦億計弘計の⼆皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此⼈ならん)。」

   出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)

【今田三郎屋敷跡】

本庄上今田地区の土地の人達によって今田三郎の屋敷跡はこの地であったと古くから語り継がれている。この今田三郎は、この地の上にある三柱神社に祀られている。


三柱神社攝末社及び境内神社 今田神社

鎮座地   伊根町字本庄上小字日谷今田26番地の2+
祭 神   今田三郎
創 建   天正元年七月(1573)
特殊神事  太刀振、花の踊
例 祭   8月8日


『丹哥府志』天保12年(1841)

「曽布谷とおなじく今田三郎の宅地なりとて小祠あり、此処にも今田三郎の子孫といふものあり」

(再掲)「社記⽈。(中略)⾵⼟記履仲天皇四年始て國史を置き盡く⾔事を記さしむ、此時に當りて丹波國與佐郡筒川の庄⽇置⾥に浦島太郎といふものあり、⽉讀尊の苗裔なり、故を以てこれを⻑者とし國事をしるさしむ。其弟を曾布⾕次郎といふ、次を今⽥の三郎といふ、浦島曽布⾕今⽥は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり。太郎は履仲天皇反正天皇の⼆代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(國史に⽇下部使⾂其⼦吾⽥彦億計弘計の⼆皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此⼈ならん)。」

   出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)

【白鷺鼻】

元禄9年(1696)の浦嶋子口伝記に「浦嶋子仙人のように身軽く、天に昇り飛ぶ鳥のようで、ある時は泳ぎも魚の如く泳ぎまわり、雲龍山より流れ落ちる布引滝、高さ七十有余丈を鯉に乗りて上がり下がりをし、小舟に乗りて白鷺埼の沖合いで魚釣りを楽しむ」と記される。


『丹哥府志』天保12年(1841)
「白鷺が鼻
 昔島子の龍宮へ渡らざる以前は此辺も海なるよし、よつて此処にも島子の釣垂れ石とて今田の中にあり」
   出展:「丹後郷土史料集 第一輯」昭和13年(1938)


現在の当地は、筒川河口から遡上すること約2kmの位置にあるが、この周辺には、海辺を思わせる地名が残っている。

   舟原、舩原、魚見、東魚見、西魚見(伊根町誌より)

【若宮神社】

鎮座地   伊根町字本庄浜小字アゴバ618番地
祭 神   三野対馬守郎女命(いらつめのみこと)
創 建   寛永元年(1624)
社 格   無格社
構 造   流造り、梁行2.6尺、桁行3.6尺
特殊神事  太刀振、花の踊
例 祭   8月8日

祭神の三野対馬守郎女命は、三野対馬守( ? -1623)の妻であり、三野対馬守が亡くなった承応2年の2年後、寛永2年(1625)に亡くなっている。

三野対馬守は藤原太郎忠勝とも称し、室町時代には丹後守護一色氏の配下で本庄城(水之江城)の城主であったが、元亀4年(1573)に退城、民間に下り本庄浜の名家平松家の祖になった。この平松家の末裔には、戦前に爆発的な大ヒットとなった『東京音頭』(昭和9年/1933)を歌った三嶋一聲(本名:三野哲太郎)を輩出している。この三野一族は、代々浦嶋子を守護している。

当社に享保3年(1718)再建の棟札があり、創建は寛永元年と近世になってからであるが、当地には古廟があったと伝わり、周辺は埋蔵文化財包蔵地として指定されている。古老の話によると、以前は石棺が露出していたとの話もあり、古墳であることは確実と思われる。

 なお、丹後地方には、祭神として若宮売神(豊受大神)を祀っている神社もあり、若宮を豊受大神とみる説もある。


『丹哥府志』天保12年(1841)
「若宮明神は何の神を祭るや詳ならず、宮の内に建武二年(1335)の棟札あり、其棟札に此所は古廟の在る所、後世必ず掘るべからずと云、唯古廟とのみ記して誰の廟たる事をいわず、定めて訳ある事なるべし、いづれ高貴の人ならんと覚ゆ、申伝へも絶えて建武の頃既に誰なる事は知れざりしか又は露にいふべき人にあらざるか」
 出展:「丹後郷土史料集 第一輯」昭和13年(1938)